新河岸川での水難事故で思うこと [日々雑感]
☆☆☆このブログ記事を書くにあたり、新河岸川で亡くなった男児と救助しようとして流されてしまった男性のご冥福を心からお祈りします。☆☆☆
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1.新河岸川での痛ましい水難事故の概要(ニュースからの情報を集約すると)
新学期が始まる前日4月7日に東京都板橋区を流れる新河岸川(しんがしがわ)で区内の小学2年の男児(7)が溺れて死亡する事故が発生しました。さらに転落した男児を救出しようと近くにいた二人の男性が川に飛び込み、50歳台の男性は自力で岸に辿り着いたが、40歳台の男性は行方不明となってしまい4日後に近くを流れる荒川で溺死状態で発見されました。
所轄の志村警察署によると、事故は7日午後4時20分ごろ、同区蓮根3丁目の新河岸川の右岸で起きました。どうやら対岸にいた男児の兄の友人がサンダルを誤って川に落としてしまい、右岸にいた男児が流れるサンダルを手元に引き寄せようと石を投げようとして川に転落したと言います。
現場は高さ約2.5~3メートルのコンクリート製の堤防があり、川岸は草むらになっているものの、ほぼ垂直に護岸が落ち込んでいる。管理する都などによると、川岸から深くなっており、事故当時の付近の水深は約2~2.5メートルだった。
--フリーイラストを使わせて頂きました--
2.このニュースを見て疑問が感じたこと
(疑問1) 都市型一級河川である新河岸川は両岸とも2メートル前後のコンクリート護岸となっているのに小学2年生の男児が護岸を超えて河川に落ちたのか?
(疑問2)救助しようとして流されてしまった男性が別の場所(荒川)で発見されたのか?
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自分はこのへんの荒川河川敷を自転車で走り回っているので地理には多少詳しいため、このような疑問が起きたのかもしれません。早速、現場を回って確認してみました。
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3.事故現場を訪れてみました。
(疑問1)以下のニュース写真をもとに現場を探してみました。
現在は献花やお菓子・飲料などが置かれていた場所がありました。
現場付近は板橋区立”にたば児童公園”の一角になっていて、他の場所が2メートル以上の護岸となっているいるのに対して、ここでは地盤が盛り土されていて70~80センチメートル程度のコンクリート護岸の上に金属製の手すりのような護岸となっていました。この程度の高さであると元気な小学生なら乗り越えてしまう可能性は十分にあります。
今は注意看板が掲げてありました。
そして川を覗くと
google地図ではこの位置です。
警察の情報では「対岸でサンダルを誤って川に落とし」とありますが、川幅が結構あって、とても両岸でやり取りできる川幅ではありません。情報が正しいとするとこの場所は男児を引き上げた場所であり、別の場所で転落してこの位置まで流されてきたと見る方が自然です。
数十メートル上流の対岸を見ると水辺に公園があります。
橋の上から川下を撮ってみます。右岸側が男児を引き上げた場所です。橋を渡った先には「舟渡水辺公園」があります。ちょうど公園内の芝生では保育園の子供達が遊んでいます。
引き上げられた対面となる公園奥を調査すると、そこは工場敷地となり金網柵で進入禁止になっていました。となると、サンダルを誤って落としたのはここの公園が有力ではないか?と感じました。では、なぜここだけに水辺公園があるのか? との疑問が湧きました。そして公園の一角でこのような看板を発見しました。
確かに昭和の高度成長期の新河岸川は、両岸の工場排水と生活排水によりメタンガスがボコボコと浮きだつ魚が住めない臭い川でした。しかし、今では排水規制により川の水が綺麗になり川辺に降りられる場所を作ったようです。
公園の水際には、救助用浮き輪BOXが取り付けてありましたが、今回の役に立つたか?はわかりません。だって足場のない柵の外側にBOXがついているのでこれでは使えないでしょうね。
私が写真を撮っていた時に、ジャンパー姿の風情から恐らく区会議員の先生だと思われる人が川に向かって写真を撮っていました。また、右岸には作業服姿の恐らく河川を管理する都の職員かと思われる人達が図面を抱えて話し合っていました。このように今日も原因究明が続いている状況です。物理的な対策の他には男児と一緒に遊んでいた子供達や事故後に集まってきた子供達に対する心のケアも必要だと感じました。(既に学校で対処していると思います)
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(疑問2) 新河岸川で流された男性が荒川で発見されたのは?
行方不明となっていた男性は、4月11日午前6時20分ごろ荒川でモータボートに乗っていた人が水面に浮かぶ男性の遺体を見つけて通報しました。男性が発見された場所は新河岸川の事故現場から6キロ下流にある岩淵水門から、荒川に合流してから上流へ2キロ遡った赤羽ゴルフ倶楽部がある河川敷の地点です。
google地図ではこの位置です。
それには新河岸川と荒川の過去の河川改修が関連してきます。元々の新河岸川は、川越から江戸に農産物を運ぶための航路として発達していました。その頃の新河岸川は現在の朝霞水門あたりで荒川に合流して荒川を下って現在の岩淵水門あたりで現在の隅田川に流れ込んで日本橋に向かっていました。
事故現場から新河岸川を約3km上流に位置する朝霞水門です。
朝霞水門から約1km下った地点にある白子川との合流点です。
2つの川の合流点を更に遡つて朝霞水門から荒川に流れ込むと言うことは無いと思います。
次は事故現場から6km下った岩淵水門に向かいます。
向かって左側が新河岸川、右側が荒川放水路、手前が隅田川です。
地図上で新河岸川と荒川が合流するのはこの2箇所だけですが、少し気になる情報がありました。それを語るには2つの川の流域の変化です。度重なる当時の荒川(現在の隅田川)の氾濫対策として蛇行していた荒川を直線化として氾濫を防ぐ河川工事が関係します。
それは大正時代から昭和初期にかけて現在の荒川ルートとなる新しい水路(放水路)を作ったことです。JR浮間舟渡駅前にある都立浮間公園の池は、蛇行していた荒川の名残りです。浮間公園の先には荒川土手があり、土手を超えると荒川河川敷にある赤羽ゴルフ倶楽部となっています。
荒川の直線化に合わせて、新河岸川は朝霞水門から浮間までを開削して元の荒川を活用して岩淵水門までつなぎ合わせました。
このような河川改修の経過を知る人は、今でも新河岸川と荒川は地下水路で繋がっているのではないか? と思っている人がいるらしいです。確かに新河岸川の合流点には浮間水再生センターという下水処理場ができ、そこと浮間公園(池)とゴルフ場内の池の配置は一直線上にあります。
そこで、浮間水再生センターの新河岸川のゲートを確認すると
新河岸川へは放水するようなゲートでした。これで、新河岸川と荒川が地下水路で結ばれているというのは都市伝説であったことがわかりました。
やはり事故現場から6キロ下流にある合流地点である岩淵水門から、荒川に渡り上げ潮の力でUターンして上流へ2キロ遡ったと想定するのが妥当だと思います。
--東京新聞の記事にその時の緊迫した状況が書かれていました--
最後に救助に向かい自力で岸に戻った50歳代の男性に東京新聞の記者が取材に対して「水で服が重くなり、自分もダメだと思った」と当時の状況を語った。
◆下に引っ張られるように体が沈んでいった
取材に応じた男性は妻と堤防沿いを散歩していたところ、川の方から「助けて」という子どもの声を聞いた。堤防の下を見ると男児ら2人が溺れていて、堤防に設置された足掛けを使い、急いで岸に下りた。
男児は岸から約2メートル先、30代ぐらいの男性はさらに川の中央付近で沈んでいくのが見えた。泳ぎに自信があり、川も一見流れがなく浅いように思えたため「これなら助けられる」と服を着たまま飛び込んだ。
しかし流れは予想以上に速く、数十秒で着ていたジーンズが水を吸って重くなった。身動きが取れなくなり護岸に取りつこうとしたが、下に引っ張られるように体が沈んでいった。
「これにつかまって!」。妻が2メートルほどの木の枝を拾って突き出し、しがみついて救助を待った。数分後、若い男性2人に引き上げられた。男性は腕や腹の軽いけがで済み「服を着て川に入ったらだめだと思った。助けが来てくれなかったら、自分も死んでいた」と振り返った。
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水難者を目撃した場合、とっさに飛び込みがちだが、専門家は「慌てて行動せず、『浮いて待て』がポイントだ」と助言している。
---今日のおまけ---
荒川河川敷で見つけた桑に実(ドドメ)です。まだ熟していません。
上流から流れてきた種が自然に任せ、今では大木になってます。
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<後書き>
緊急事態発令が決定しそうなので、友人からは畑仕事のお手伝い要請が再び停止とするメールがありました。これで畑仕事のブログ記事もネタ切れとなります。ちまんないな~~!
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本日も最後までお付き合いを頂きまして有難うございました。
ではまたね~!